銀のバット

 

 歓声と罵声とが轟く球場で、今日も男達の名もなき勝負が始まろうとしていた。ただ、白球の勝負に命をかけて。

 「六番 レフト 鈴本 背番号8」

 そう場内アナウンスが告げると、大歓声が沸き起こる。

 二対一でむかえた九回の裏、ノーアウト一塁。敗戦濃厚のこのゲームに初めて先頭打者が出塁した。そして、次のバッターは3割打者。最近調子を落とし、六番に下がってはいるが長打を期待できる選手だ。観客はここで「一発」を望んで、声援を送る。

 『かっとばせー、スッズモトー!』

 しかし、初球、高めのボール球に手を出し、あえなくライトフライ。

 ワンナウト一塁。そこで、一人の男が右バッターボックスにゆらりゆらり、と入っていった。

 「七番 センター ――― 背番号 52」

 

 

 

 一塁側 新山バッティングコーチの話

 

 「あいつはさ、守備固めで出しただけだったんだ。守備はうまいんだが、打つほうはからっきしダメでね。典型的な守備要員さ。

 あそこで、鈴本が出塁。あいつが送りバント。そして、八番の谷田が犠牲フライかスクイズで同点。九番のピッチャーに代打を送って、サヨナラ。って監督と話してたんだ。ま、あくまで理想論だがね。

 それがどうトチ狂って、ああなったんだか。わからんなあ」

 

 

 

 一塁側 林二塁手の話

 

 「あの人ですか? 不思議な人ですね。なんかいつも宙に浮いているような…。

 地味な存在なんだけど、ベンチにいるだけでなんか違うんですよ。どう違うか、ですか? 言葉にすると難しいですねぇ。

 例えば、あの人がベンチを暖めているだけでも、負けゲームだなぁ、とあきらめていた試合が一点差までこじれる、何てことが多々あったんですよ。でも、その試合は落としちゃいましたがね。

 そうですねぇ、敢えて言うなら、みんなを妙な気分にしてくれる人、ですか。

 やっぱり、そういう人なんですよ、あの人は」

 

 

 

 バッターの名を、ウグイス嬢が放送しても観客席は沸かなかった。いや、沸けなかった、と言う方が正しい。お世辞にも「スター」と呼べるような選手ではない。

 バッターボックスに立って、相手の抑えの守護神が第一球のモーションに入るのにさして時間はかからなかった。

 守護神が大きく振りかぶって投げる。

 バッターはバントの姿勢から、バットをすぐに引っ込めた。

 「ストラーイク!」

 外角低めギリギリに投げられた直球は、そう判定された。

 その視線はマウンド上の守護神の目に向けられていた。だが、バッターが見ているのはそれだけではない。他の何かを。

 次の球のサインをキャッチャーが送る。迷う事なく縦に首を振る守護神。

 大きく振りかぶって二球目を投げた。

 

 

 

 ファン 「匿名希望」の話

 

 「あの選手にはさ、オレ、思い出があるんだ。十年ぐらい前かな、息子を連れてナイターに行ったんだ。その時、ベンチの真上の席でね。選手のすぐ近くにいられて嬉しかったもんさ。

 確か、あれは大差をつけられて負けが見えてしまったゲームでね。そんな時にあの選手が代打で打席に向かう時だ。ウチの息子が一言叫んだんだ。

 『おじさーん、がんばってー』って。

 あの選手、ウチの息子に手を振ってくれたんだ。他の選手は聞こえもしなかっただろう、小さな子供の声に。

 試合後、あの選手、ありがとうと言って息子にバットをプレゼントしてくれたんだ。

 オレも息子も一発でファンになっちゃったよ」

 

 

 

 妻 華織夫人の話

 

 「あの人、無口でしょ? 家の中でもそうなんです。私にもなんにも喋ってくれない人なんです。特に負けた試合の後は。

 でも、あの人にも優しいところはあるんですよ。子供が生まれた時、あれは、あの人が遠征中の時だったかしら。久々のスタメン出場のゲームの後、病院まで駆けつけてくれて。なんにも言わず、ただ息だけを切らせて。

 こんなこともありました。子供が小学校に入って、初めての父親参観日。子供が将来の夢の作文を書いて発表する日だったんです。他の友達は「ケーキやさん」とかだったのに、ウチの子は「ぷろやきうせんしゅ」って、発表しちゃったんですよ。あの人、その時は教室の片隅で照れくさそうにしてましたが、夜、私にこう言ったんです。

 プロだけにはするな、って。人と争うだけの職は持って欲しくない、って。あの人らしいですよね、本当…」

 

 

 

 二球目となった直球は大きくストライクゾーンから離れていた。判定はもちろんボール。

 明らかに守護神の様子が変わっていた。キャッチャーからのサインに対し、ことごとく首を横に振るのだ。

 やっと頷いて、三球目を投げた。

 内角低めのスライダー。きわどい所だったが判定はボール。これでカウントは1‐2となった。

 ここから、三度の牽制を挟んで四球目を投げた。

 内角低めシンカー。バッターは、又してもバントの姿勢から戻った。

 これもきわどい所であったが判定はボール。これでカウント1‐3。

 バッターの視線は未だに守護神の何かに向けられている。

 

 

 

 三塁側 永宮監督の話

 

 「いやあ〜、いけると思ったんですが、いけませんでしたね〜。

 浜本が不調だったか? ですか。いたって好調でしたよ。彼はいつだって期待に応えてくれますからね〜。

 でもだめだった? ええそうです。野球は勝負なんですから、勝つ時もあれば、負ける時もある。そういうモノなんですね〜。

 まぁ、いわゆる一つの『みすていく』ってヤツですか」

 

 

 

 三塁側 田村捕手の話

 

 「あれは絶対おかしい! ウチの抑えは完璧なはずだ。そして、俺のリードも完璧だったはずだ。さっさと、あの『間の抜けた奴』をダブルプレーで終わらせるはずだったんだ。

 あのスライダーをボールにした能無し審判、先ずあのバカがおかしい。ツーストライクにしてしまえばバントは出来なくなったはずだったのに。

 しかし、それ以上に納得がいかないのはあれだ!

 あの時、おれはピッチャーに決め球のシンカーを投げろ、とサインを送ったはずなんだ。

 あの判断は間違ってはいなかったはずだ。シンカーなら、バントしてもうまく転がる可能性は低い。そして、ファースト、サードの前進守備。

 あれで終われるはずだったんだ。いや、終わるべきだったんだ」

 

 

 

 四球目の後、五球目を投げるのにかなりの時間を要した。五回もファーストへの牽制をしたのと、バッテリー側のサインがなかなか噛み合わなかったからである。

 そして、やっとのことで五球目がミットめがけて投げこまれた。

 その球はシュート回転をしながら相手の目の前で落ちるはずの決め球だった。

 バッターは球がピッチャーの手を離れると同時に、バントの姿勢に入った。

 それを見て三塁手が駆け寄ってくる。

 だが、バッターは目にも止まらぬスピードで態勢を元に戻し、ヒッティングに入った。バスターバントである。

 鈍い音を立てて、鋭い一振りが球を捕らえた。

 ボテボテのあたりは三遊間を軽々と抜け、ヒットになった。

 

 

 

 三塁側 浜本投手の話

 

 「いや、僕なんかに言うことは何もありませんよ。ただ、あの人がバッターボックスに立つまでは、勝てると思ってたんです。ああ、セーブが一つ増えるなぁ、って。

 でも、あの人に一球目を投げた後、何かを、僕の何かをあの人に掴まれたようで…。それからはもう、何も覚えていません。

 あ、でも五球目はシンカーを投げたはずですよ。すっぽ抜けではなく…。

 曲がりませんでしたがね…」

 

 

 

 『えー、放送席、放送席。ヒーローインタビューです。

 今日のヒーローは逆転サヨナラツーベースを打った谷田選手です』

 「ど、どうもありがとうございます」

 『あの九回裏、ワンナウト一・二塁からの一打ということになりますが、初球でしたね』

 「ええ、ど真ん中に来たんですよ。完璧な失投じゃないでしょうか。思いきって振ったら左中間真っ二つしちゃいました、ハハハ」

 『今後も長いペナントレースが続きますが、ファンの皆さんに何か一言』

 「僕らチーム一丸となって、優勝目指して頑張りますのでみなさんどうぞ、応援よろしくお願いします!」

 『今日のヒーロー、谷田選手でした』

 

 

 

 今日も、どこかの球場で戦いが繰り広げられている。

 

 

 

 

 

 

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