其の二 総ちゃん浸水

 


 午前九時。タイムオーバーである。結局、原稿があがったのは…なんと全員である。どういう経緯でそうなったかは各人想像していただきたい。


 「じゃあね〜。いってくるよ〜」


 そう言うと、伊佐治は愛車に乗って印刷会社へと向かった。


 皆は赤いポルシェを見送ると、編集室に戻る。だが、戻るや否や倒れこんでしまった。


 ばたんきゅー


 みんなあっという間に眠りに入ってしまった。ただ、菱田一人を残して。


 


 その頃伊佐治はハンドルを握っていた。


 一向に車が進まない。赤いポルシェは渋滞の渦中だからだ。


 「あ〜あ、進まないんだよ〜。ヒマなんだよ〜」


 なんとか昼までに着かなくては。伊佐治は多少焦っていた。なぜなら、毎号毎号印刷会社に無理言って、発売日にギリギリ間に合うか合わないか、のレベルで印刷してもらっているからである。


 (もう十二時までですよ。それ以上は諦めてくださいね)


 そう電話で言っていた、印刷会社の社員の声が頭に響く。


 「それでも、いいのかもな…」


 


 瀧本は朦朧と、夢の中をさまよっていた。


 何故だか空に浮かんでいる。


 「空もイイわねえ。なんだか落ち着くわぁ」


 プカプカと浮かんで、のんびりとしているとなにやら大きな影が接近してきた。しかし、音は聞こえない。


 大きな影…それは鋼鉄の翼、ジャンボジェットであった。何でこんなところに?と考えてまもなく、答えは口から出た。


 「ここはジェット気流の中? ぎょええええっ!」


 恐ろしいスピードでどんどんジェット機は大きくなって、瀧本に容赦なく近づいてくる。しかし、接近してきてある事に気が付く。


 「何であそこにでっかい顔があるのよ?」


 そう、何故だか機首の部分に人の顔がくっきりと、はっきりとくっついていたのだ!


 「―な? しかも編集長?」


 巨大な伊佐治の顔を先端につけた鉄の塊が瀧本を襲う!


 「ひえええええ、え、笑顔ぉ!? なんで笑ってんのよぉっ! おやじの顔は見たくないのよぉぉぉっ!」


 どっかーん


 


 大量の汗を額に浮かべ、瀧本が目を覚ますとそこには海江がいた。


 「大丈夫? かなりうなされてたよ」


 瀧本は呼吸も荒く、ただハーハーいっているのみ。海江は悪い夢でもみたんだろうな、と思い訊かない事にした。


 「今、何時なの?」


 「そうね、夜の九時ぐらい、だね」


 あの地獄の締め切りの後、ほとんどが泥のように眠った。そしてその後、編集室で最後に起きたのが瀧本だった。


 「九時…か。十二時間も眠ったのねぇ。我ながらよく寝たわ」


 それを聞いて海江が吹き出した。


 「なによ? なにがおかしいのよ?」


 「十二時間? 甘い甘い。三十六時間」


 「ぎょえええええええっ!」


 驚くのも無理はない。徹夜慣れしていても、編集という慣れない作業で疲労が蓄積したのだろう。


 結局、それほどの時間ずっと編集室で眠りこけていた瀧本であったが、ふと、他の者のことが気になった。


 「他の人は? 他のみんなはどうなったのよ」


 「みんな? 帰ったよ。自分の家に」


 やはり、他のメンバーはこのような徹夜続きにもなれているらしい。ほどほどで切り上げた、ということか。


 「じゃあ、あんたは? あんた今まで何してたの?」


 「別に。なんにもしてないよ」


 そう、海江は瀧本が目覚めるまでずっと待っていた。日付が変わっても。しかし、慌てて海江が付け加える。


 「ホントに何にもしてなかったんじゃないよ。記事書いてたんだもん。それに、探偵さんにはボディガードしてもらわないと」


 ボディガード、という契約が在ったかどうかは別として…


 瀧本は今になってやっと、自分が探偵であったことを思い出した。


 その事実に呆然とする瀧本。


 「ねえ、どうしたの総ちゃん? なんかあった?」


 現実と言うものは時として、いや常に非情であるものなのだ。


 


 「ただいま〜、なんだよ〜」


 話は少し前にさかのぼって、一日前の編集室。夕方になってやっと伊佐治が帰ってきた。


 「編集長、どこで油売ってたんですか?」


 眠りから覚めたばかりの崎田の口からそんな苦情がこぼれた。


 勤務時間中に寝ていたお前に言われたくない、と内心思いながら伊佐治は、他の連中が形だけでも仕事中なのを横目に、さっさと自分の椅子に座った。


 「ちょっと崎田君〜こっち〜だよ〜」


 そう崎田を呼び出すとなにやら紙を胸ポケットから取り出した。


 「なんなんですか? 編集長」


 「実はね〜これがね〜」とそこから先は急に伊佐治の声が小声になる。


 話の一部始終を聞かされた崎田は驚愕の色を隠せなかった。その表情から、ことの重大さは十分に窺い知ることができる。


 「そうですか…了解しました…」


 ――編集部に風が吹く。

其の三

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