其の七 総ちゃん無重力


 風が吹く。鋭く、冷たい。ぴゅう、と音を立てそうな風は容赦無く吹きつける。


 「この風よりも、世間の風の方が冷たい…ってか」


 彼女は、探偵事務所への足を急いだ。

 

 



 何もする事が無く、瀧本はただ、ボーっとしていた。


 あの殺人事件以来一ヶ月、ずっとこんな感じである。


 解決したはいいが、何か物足りない。具体的には分からないが、心にぽっかり穴が開いたような…瀧本はそんな感覚を覚えていた。


 トントントン


 「どなたー? お入りになってー」


 座ったまま瀧本がドアに向かって言った。


 「お久しぶり、総ちゃん」


 入ってきた人物は海江であった。


 「アンタ、今まで何してたのよ〜」


 「事件の後ね、いろんな仕事を私達だけでやったんだ。編集長なしで本をアップするのは大変だったけど、これで来月号がちゃんと出るんだよ。頑張ったでしょ?」


 そう言いながら、初めてここにやって来た時と同じ場所に座った。


 「そうね、アンタたち三人だけでよくやったわ」


 「…三人か…。三人になったんだよね…」


 そう、本来五人いたはずの生卵編集部は、編集長伊佐治が消え、そして、それを殺害した――


 「崎田さん、泣いてたよね……いくらなんでも酷すぎるよ。考え方が違うからって殺しちゃうのなんてさ。」


 瀧本は返事をしなかった。いや、できなかった。

 他人がどうして殺人を犯さなければならないのかは分からないし、そんな感情は抱いても心の奥底に封印しなくてはならない。

 情熱の歯車が噛み合わなくなってしまったが故に、崎田は伊佐治を殺した。

 自分自身のプライドを傷つけられたが故に、殺した。

 他に理由はない。

 そう、それが殺人犯なのだから……。

 


 結局、凶器はダンボール箱の中にあった。しかし、いくら中身を探しても見つからなかったはずである。


 「総ちゃん凄いよね、あんなとこ普通気付かないよ」


 「まあね。ただ、箱の一つが少し穴をあけてたから、ってとこね」


 ダンボール、というものは波状の紙が二枚の紙の間に入ることによって強度を得ている。


 もうお分かりであろう。その波間にできた空間に凶器はすっぽりと収まっていたのである。


 あのまま、誰も気付かなかったら凶器は箱の中に眠っていたままだっただろう。そして、犯人の特定もできなかったかもしれない。


 見つかった凶器には、崎田の指紋がしっかり残っていた。


 「…凶器、棒針…だったね」


 海江が弱々しく呟いた。その表情は暗い。


 棒針とは――よく一般に編み棒、と呼ばれるものである。そんなありきたりの物が、何故凶器になりえるのか?


 「尖らせてあったわよね。別にそんなので殺さなくっても、ってあの時はアタシも思ったわ。でもね、それはそれで伊佐治に対するはなむけだったかも…、って今は思うのよ」


 「そう…、そうだよね」


 海江の顔が多少明るくなった。実は、あの大量の返本として帰ってきた生卵の特集はセーターだったのだ。そして、編物のハウトゥー、という記事もそこには掲載されていた…。


 「あの後ね、もう一本の方も、崎田さんの机の中から発見されたんだ…」


 「そうなの…」


 頷いて返すしかなかった。


 瀧本は思う。すれ違いは悲しいものよね、と。

 

 



 「そうそう、アンタの依頼の調査どうする? ストーカーはあれからどうなったのよ?」


 「あの夜以来、全然無いよ。もう飽きたんじゃない?」


 伊佐治が殺された夜、海江もストーカーに襲われた。しかし、間一髪の所で瀧本が現われ、救ったのである。


 「実はね、アタシ、あの時に犯人が誰なのか――」


 「もういいや。その件は。私のバッグに入ってた盗撮用カメラも発見できたしね」


 「アンタ気付いてたの? でも、それとこれとは…」


 「代わりにね、依頼料、タダにしてよ。犯人が誰なのかわかんなくていいからさ!」


 「そんなムチャクチャな! いくらプーになったからって、それは約束と違うわよぉ!」


 トゥルルルルル トゥルルルルル


 二人の騒がしい遣り取りが一瞬沈黙する。


 「はい、瀧本探偵事務所です」


 『あ、あ、以前助けて頂いた者ですけど…』


 「…? ああ、アタシがお兄ちゃん達を試食した時の子ね。 それでどうしたのよ?」


 『実は…ストーカーに困っているんです―』


 「わかったわ! 今すぐ行くから待ってて頂戴!」


 瀧本は急いでメモをとり、上着を取る。


 出口に方向を変え、そのまま走り出そうとした所で動きが止まった。


 「…アンタ、これからどうするの?」


 「え? 私のこと?」


 海江がきょとんとしている。


 「アンタ以外誰がいるのよ! もう鈍いわねぇ」


 瀧本はせかすように言った。しかし、その表情は柔らかく、暖かいものだった。


 「…アタシに付いてくる?」


 海江は迷わず答えた。


 「うん! 行こう総ちゃん!」


 「あぁ〜ん! 置いてかないでよ〜!」


 とにかく二人は走り出した――


               
 探偵・瀧本総一郎 完

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