マウンド。そこは一枚の白い板しかない小さな丘。
いくつもの「誇り」が集う場所。
「誇り」と何かが合わさった時、そこにエースが生まれる。
ある球場のロッカールーム。閑散としたその空間に、一人の男がうつむいて座っていた。その背中の「13」に過去の輝きはない。
男は今終ったばかりの試合を思い返していた。
先発。2回5失点ノックアウト。
そのあまりにもひどい数字は、明日のスポーツ新聞にどう書かれるのだろうか。想像するまでもない。
チームは惨敗。チームのメンバーはもう既にバスで帰ってしまった。
一人うつむき、無意味に時間だけが過ぎてゆく。
どれくらいそうしていただろうか。後ろで何か物音が聞こえた。
「あ、センパイ。起こしちゃいましたか? すいません」
額の汗を吹きながら、背番号「18」は笑顔で答えた。
男が、練習していたのか?と尋ねると、
「ハイ、明日は自分が先発ですからね。連敗を止めなくちゃ。じゃあ、センパイ。おつかれした!」
彼はそのまま出て行った。
大きなエンジン音が轟き、また辺りに静寂が戻る。
男は、またうつむいた。
男はテレビに向かっていた。
ブラウン管には背番号「18」が映っている。
『ピッチャー、投げました! ストライク三球三振! ゲームセット!』
『やはり完封しましたね。この時期でもう―――』
男はそこでスイッチを切った。
男は夜の街を出歩く。
真赤だった顔を青くして、とぼとぼと歩く。
そして、誰もいない路地裏に座りこむ。
誰も自分を見ても、昔のように握手やサインを求めたりはしない。
少年達も、昔のように羨望の眼差しを向けてくれない。
目の前にあるのはただ闇だけだった。
「風邪ひきますよ、起きてください」
男はいつの間にか眠りに落ちていたらしい。肩をゆすって男を起こしたのは若い警官だった。
「浮浪者と勘違いされますよ。とにかく来てください」
男は、ついに俺もご厄介になるのか、と思っていた。
小さな古びた派出所に案内されると、男は指示されるがままに椅子に座った。
「なにをそんなに暗い顔してるんですか? え? 俺を捕まえるのかって? そんなことはしませんよ。自分は、市民を守るのが義務ですから」
どうやら巡査らしいその警官は、男にそう言った。
男は、少しは安心したようで、巡査の出したお茶をすすった。
「あんな所で、何してたんですか?」
酒のんで寝ていたに決っているだろう、と男が言いかけたその時、
「どんなに嫌な事があったって、酒にやられてしまってはいけませんよ。大事な体なんですからね」
男は巡査の言っている事がわからなかった。いや、正確にはその意図がわからなかった。この男が誰だか分かる人間など、ほとんどいないはずだからだ。
「僕、一度あなたにお会いした事があるんですよ。覚えて……いらっしゃらないですよね。あの時はまだ子供でしたから」
巡査の顔をしっかりと見て、何とか思い出そうとした。だが、酔った分もあるのかなかなか思い出せなかった。
「確かあなたが……。そう、あの時です」
少年は、ベンチの端で体を小さく屈めてうつむいていた。
声を殺しながら、震えている。
その青く、真新しいユニフォームの袖は濡れていた。
「頼んだぞ! 四番!」
「任せろ、ホームランだ」
仲間達は諦めずにまだ戦っている。
だが、自分はもう戦えない。
この点差も、この流れも、自分の責任だと言うのに。
悲しみと自己嫌悪とが、少年の涙の源だった。
「みんな……ごめんよ」
少年はベンチからそっと抜け出した。
どこに行こうというのではない、ただ、どこか遠くへ逃げてしまいたかっただけ。
歩けば歩いただけ、みんなの声が小さくなる。
監督の声が聞こえなくなる。
野球の音が聞こえなくなる……。
気が付くと、少年は公園のブランコに腰を落ち着けていた。
辺りはもう暗くなって、街路灯が辺りを照らしている。
(寝ちゃったのか……僕。帰らなきゃ……でも…)
少年はゆっくりとブランコをこぎだした。
きーこきーこ
(なんで僕はいつもこうなんだろう)
きーこきーこ
(監督の期待に、みんなの期待に応えられない)
きーこきーこ
(投げたい所に、ボールがいかない)
きーこきーこ
(ランナーがいると、落ちつけない)
きーこきーこ
(ピッチャーに……、ううん、野球に向いてないのかな)
目まぐるしく変わる少年の視界に、何か白いモノが入った。思わず、それに意識が向かう。
遠くにいたはずのそのモノは、あっという間にブランコのそばまで来ていた。
「ウー、ワンワンワン!」
(い、犬? 大きい……)
少年は驚いて、逃げ出そうとした。だが、ブランコの上にいる以上、遠くに飛ばない限り、それは難しかった。
(こ、こわいぃ……あっち行けよ!)
真っ白の犬は吠え続ける。少年に向かって、執拗なまでに吠え続ける。
少年にとっては長い時間だった。
犬も散々吠えて疲れたのか、息も絶え絶えになるまで吠えた頃、向こうから、ウインドブレーカー姿の男がやって来た。
「おい、なにやってるんだ、レオ! あ、ごめんね、ボク」
その男は、レオと呼ばれた犬を撫でながら、少年に謝った。
少年はブランコをこぎ続けたまま、何も喋ろうとはしなかった。
「どうして何も言ってくれないんだい? ボク」
きーこきーこ
きーこきーこ
「レオを放しちゃったのは、俺がちょーっと目を話しちゃったからでね……、って言い訳がましいな」
きーこきーこ
きーこきーこ
きーこきーこ
「……ねえ、お願いだから何か言ってよボク。ひょっとして、喋れない子なの?」
きーこきーこ
「違うもん。喋れるもん」
きーこきーこ
「じゃあ、なんで口を開いてくれなかったの?」
「ボク。って呼ばないでくれればいいよ」
少年はこぐのを止めた。そして、じっと男を見ている。
「そんなに見つめられると、お兄さん困っちゃうなあ」
「お兄さん? おじさんでしょ」
男は笑いながら、少年の隣のブランコに座った。
「君、名前はなんていうの?」
「見ず知らずの人にそんなこと言う義理はないもん」
男は少年の答えにまた笑った。
「おじさん、こんな所で何してるの?」
「ちょっとね、犬の散歩がてら、トレーニングをしてるんだ。そんなことより、君こそこんな時間に何してるんだ? ママが心配するぞ」
少年は背を丸めて、黙り込んでしまった。
「そうか……言いたくないか。でもな、大体見当はつくぞ」
「うそー、なら当てて見せてよ」
男は自信たっぷりに、
「女の子にふられたんだろー」
「だーれが、あんな女子なんか」
男はしばらく考え込むと、
「先生にいたずらが見つかった、とか」
「今日は日曜日だよ」
「うーん、なんだろうなあ」
男は遠くを見つめて、静かになる。
少年も同じように静かになる。
男は前方を向いたまま少年に言った。
「試合に……負けたのか」
「まあね、そんなとこ」
男は少年の背番号「1」と、その赤く腫れた目を見て、悟っていた。
「ピッチャーは孤独だとよく言われる。知ってるか?」
「うん。知ってる……」
うなだれた少年は元気なく答えた。
「確かに、端から見れば孤独だ。チームのみんなとは凄く離れてるし、自分以外頼る人もいない。キャッチャーだって自分が投げるのを待っているだけ……そう思ってないか?」
「……そう思う」
少年が更に沈んだ様に見えた。
遠くの方ではレオが元気に走りまわっていた。
「レオ! こっちに来い!」
男はすぐに近くにやって来たレオの頭を撫でながら、少年に語り掛けた。
「レオはね、ボールのにおいが好きなんだ。だけど、ボールから逃げた奴は大嫌いなんだ」
レオの眼は少年をじっと見つめていた。
「君は背番号1を背中につけているね。誰が選んだんだ?」
「ついこの前、選ばれちゃったんだ……。監督やみんなに」
「選ばれちゃった、ということは、つけたくなかったのか? 嬉しくなかったのか?」
少年はブランコから降りると、男の目の前に立った。
「嬉しかった。嬉しかったに決ってるじゃん! でも……」
「でも?」
「期待にこたえられなかった! ……僕はエースにはなれないんだ」
男も立ち上がり、少年に近づいて少年の肩に手をついた。
「いいや、背番号1はエースの番号だ。君はそれをつけているんだ」
少年の目は既に潤んでいた。
零れ落ちる涙も拭かず、少年は泣きながら叫んだ。
「僕はエースなんかなれやしない! そんな才能も実力もない!」
そんな少年に対し、男は諭すように言った。
「才能があるのがエースじゃない。実力があるのがエースじゃない。エースであるという誇りと、みんなからの信頼とがあるからエースなんだ。君は、一球一球己の誇りを込めて投げ込んだか? 後ろにいるみんなを信じて投げこんだか?」
少年は首を横に振った。
「だって……初めての先発で、不安で……自信を持って投げるなんてできっこないじゃないか。それに……それに、みんなが守らなくてもいいように投げるのがいいピッチャー、っていうもんなんだろ?」
少年と同じ目線にまで腰を下ろした男は、泣きじゃくる少年の瞳に厳しく、しかし、柔らかい表情で語り掛けた。
「それじゃあ、だめだ。自分を信じてあげなくちゃいけない。投げられる、抑えられる、って信じること。だけど、それだけではただの一人よがりだ。だから、みんなを信じる。ピッチャーが野手を信じて投げていれば、おのずと野手はそれに応えてくれる。ピッチャーを信じてくれる。あいつなら、このピンチを食い止めてくれる、ってね。その二つを分かるにはまだまだ時間が必要だ。……焦らなくていいんだ。……君はこれから真のエースになればいい……」
「えぐっえぐっ………」
少年は男の胸で泣いた。
少年はひとしきり涙を流して疲れたのか、地面に座りこんでいた。
ゆっくりと近づいたレオは、少年の顔を、涙を、拭き取るように舐めた。
「ははっ、くすぐったいよ。はははは―――」
少年は笑いながらレオとじゃれていた。
無言で男は見守っていた。
どれくらいそうやって過ごしていただろうか。
男はふと、思い出したように腕の時計を見て、少年に言った。
「もうこんな時間だ。君もお家に帰りなさい」
「うん! じゃあね、おじさん。レオ」
「ワォーン!」
じき「エース」になるだろう少年の笑顔は、男には眩しかった。
「あれから何年経つんでしょうかね。あの時はあなたが誰であるか知らなかったんですよねーお恥ずかしながら。あの後、テレビで……そうそう、オールスターの時。あなたの顔見て初めて知ったんですよ。レオの飼い主のおじさんが誰だったか。なのにその後僕、転校しちゃってお会いできなくなっちゃったんですよねー」
巡査は昔を懐かしみながら長々と語った。
その話を聞いている最中、男の目は、さっきまでの死んだ魚のような目から、強い意思を放つ鋭い眼に変わっていた。
「あの時があるから、今の僕がいるんですよ。なんで警察官になったかというとですね――――」
男はすでに冷たくなったお茶をすすると、礼だけ言って派出所を出て行った。
「あっ、もう行っちゃうんですか? ……ああ! サイン書いてもらうの忘れた!」
男は背番号「13」のユニフォームに手を通す。
今の自分の状況が厳しい事はよく分かっている。
新しい波が押寄せているのも分かっている。
だが、見つけた。
何が足りないのか。何がなくなっていたのかを。
通路の出口に、監督が腕を組んで立っていた。
「先発……いけるか?」
男は頷いた。
その瞳に迷いはない。悔いもない。
「よーし! いって来い」
監督に背中を勢いよく叩かれ、男は孤高の丘に向かった。
チームの為に。
誇りの為に。
そして、エースである為に。