「いいかみんな、この試合は必ず勝つぞ!」
『はい!』
「絶対監督を胴上げするんだ!
ウチの先発ピッチャーは順調な立ち上がりを見せていた。
アイツは中4日の先発。だが、今のところ影響もなさそうだ。
本当のところ、監督に提言した俺が一番心配していたのだが、無用の長物だったようだ。
このチームとの対戦には「左」を使うしかない。
今までの相性からいって間違いない。しかも、こんな時期に投げられるのはアイツだけだ。まだ若いが、俺が指示した通りに投げられるアイツしか。監督も俺とアイツを信じた。
全ては今日決める。
道はもう、敵地にしか残されていなかった。
4回裏。ピンチは唐突にやってきた。
先頭打者にいきなりのツーベースをくらい、直後のバッターにフォアボールを与えてしまう。
そして、続く左バッターボックスには4番が入る。ここ何年も最多本塁打を誇るスラッガーだ。
それまでなんとか無難に押さえてきたアイツは、明らかな動揺の色を見せていた。
「素直だな、お前は」
審判にタイムをとり、マウンドに駆け寄った俺はそう言った。
ただ一言。
それを聞いてすぐ帽子を被り直した彼は、ロジンバックを二、三度空に躍らせ無言で頷いた。
まずは初球だ。セオリー通り、外のストレートだ。
ズバン!
心地よい音が、俺のミットから奏でられる。
『ボール!』
えっ? 思わず俺は声に出してしまった。あのコースでボールだと? この審判目がおかしいんじゃないのか。
仕方ない。改めて2球目だ。今の1球で見切られたかもしれない。
セオリー通りは通じない。
よし、ここはカウントを稼ぐ。お前の得意なカーブだ。
(ここだ。ここなら打てはしない)
バシッ!
外角低めのカーブが決った。
『ストライーク!』
完全にストレート狙いだったのだろう。バッターは動きもしなかった。
速球とカーブは奴の目に焼きついたはず。ここからが勝負だ。
(ここで誘ってみるか……外れるスライダーだ)
あまりお前がスライダーが得意ではないことは承知している。投げて来い。
バシッ
『ストライーク!』
ちぃ……手元が狂ったな。しかし、今のコース振られなくて良かった。
もしも狙われていれば宙に舞っていたであろうボールを、ピッチャーに投げ返す。
……奴は何を狙っている?
速球か。変化球なのか。
カウントは2‐1。まだ有利なカウントだ。
ここで一球外すのが普通だが……。奴の狙いが速球なら誘える。だが、もし変化球ならチャンスを与えるに過ぎない。
ふと、先程までバッターがオープンスタンスをとっていた事に気が付いた。
――そうか奴は内角狙いなんだ。
考えてみれば当たり前だ。ホームラン狙いなら内角を掬い上げようとするだろう。
ならば、外角高めか? いや、それも危ない。奴は今期首位打者さえも狙える打率だ。特に今年はシェアなバッティングを維持している。右に左に打ち分けられ、どの球団も手を焼いている選手だ。
そういう意味では、こちらを鋭い目で睨み付けている次の打者も同じだった。この球団は1から8まで手が抜けない。
奴はきっとカーブ狙いだ。だが、2ストライクのカウントから考えて、入りそうな球ならどんな球でも振るだろう。事実、オープンスタンスから元の態勢に戻っていたバッターは、変化球ならなんでも合わせるつもりだ。あわよくば、は狙っているかもしれないが。
(ならば直球だ。内角低めいっぱい。外れてもいい)
ピッチャーが振りかぶって投げる。
バッターが思い切りバットを振る
ズバアン!
………快音と共にボールはミットに収まっていた。
『ストラーイクバッターアウッ!』
次の5番打者は先ほどの直球を警戒していたようだった。
だが、それに反して俺は変化球で追い詰める。
次の球は、入るストレートがきたら…なんて安易に考えているはず。普通は変化球で様子を見るカウントだからな。
ならばお望み通りくれてやる。
(外角高めをストレートで。外せ)
気持ちよく誘われて出てきたバットがボールに当たる。
カン
間抜けな音と共にニ遊間に転がったボールは、見事な6、4、3のダブルプレイ。
ベンチで「5番」が怒り狂う姿が無性におかしかった。
先発ピッチャーのアイツは勝利投手の権利を得たものの、なかなか援護がないまま終盤まで投げ続けていた。もう限界が近いのだろう。いや、すでに超えていたのかも知れない。球威が落ちてはいるものの、気力で投げているのがボールから伝わってきた。
素直に俺の言う通りに投げてくるアイツに、どうしても勝たせてやりたかった。
そんな時、俺にチャンスが回ってきた。
9回表1アウト一・三塁。
未だ動かないゲームに終止符を打つには十分過ぎる大舞台だった。
(1点でいい。1点で)
しかし俺も人の子。いざとなると手が出なかった。
俺の手でチャンスを「潰す」、なんてことだけは絶対にしたくない。
……いつの間にかカウントは2‐2になっていた。
(焦るな、焦るなよ俺)
自分に言い聞かせつつ、改めてバッターボックスに入る。
もし、今俺がミットで受けていたらどうする?
どうする? 自分ならどうする?
相手ピッチャーが振りかぶる。……一球外す!
ばしっ
『ボール!』
相手のキャッチャーや、観衆がどよめいていた。
(あ、さっきの俺と一緒だ)
そんな事を思うと、少し気が楽になった。
ならば次の球は間違いない。ストレートしかない。
かんっ
少し詰まったが、大きな弧を描いて白球は飛んで行った。
(いったか!?)
そんな淡い期待は、外野手のグラブによって打ち砕かれた。しかし、犠牲フライには十分過ぎる距離だった。
1点。
喉から手が出るほど欲しかった1点が、スコアボードに、刻まれた。
最後だ。最後のイニングだ。
アイツが、先発ピッチャーのアイツがベンチからじっと見ている。
現在マウンドに上がっているのは守護神。数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきたサイドスローのピッチャー。
ゲームを締めるストッパーが背負う重圧は並大抵のものではない。
特に今日のマウンドは特別だ。鉛の塊を背負って投げるようなもののはずだ。
だが、彼は笑顔で俺にこう言った。
「お前を信じる」
守護神の右手から繰り出されるシンカーはまるで自分自身の意思を持っているかのように曲がり、両サイドに突き刺さる。
もちろん俺のミットはしっかりと受け止めている。
『ストラーイクバッターアウトッ!』
あと一人。
そう考えてはみるが実感が沸かない。沸かないけれど、今出来る事は次のバッターを打ち取ることだけだ。
ゆっくりと次のバッターがこちらに向かってくる。
4番だ。あの手強い4番バッター。
(打たせない。決める。絶対)
一発が出れば即同点。もう一発出ればサヨナラ負け。
まず第1球は……シンカーを内角で外す。
ビシッ
『ボール!』
2球目は外角高めの速球で誘う。
バシッ!
『ボール!』
この時点で守護神がタイムをとった。
キャッチャーである俺ではない。ピッチャーがとったのだ。
「お前、一人で押さえようとしてないか?」
そんなことはない、と答える。
「焦るな。オレが投げるんだ。オレ達が満足できるリードをしてくれよ。頼んだぜ」
内野手のみんなも同じような事を言いたげな視線を向けてくる。きっと外野もベンチも同じだろう。
俺は一人じゃない。
そして、今日。今。みんなで勝つんだ。
カンッ
大きな、大きなファールフライが、俺の頭上に上がった。
無意識にマスクを投げ捨て、落下点に入り、見上げる。
ボールは?
上空にあるはずの球を必死で探し、待ち構える。
漆黒の闇の真ん中に、ただ一つの白い点が見えた。
ボールだ!
パシッ
何かが目から溢れ出してきて、ボールが捕れたかどうかの確認はできなかった。
ただ、歓喜の声だけが、俺の辺りを包んでいた。